怪我をして昏睡状態に陥ったアポロニオが目覚めるのを待ち続けるヴァッカリオの話。ツイッターのフリートで意味もなくポイ投げした話をハッピーエンドに仕立て上げました。ポエミーな文を書くのも好きです。
「おはようお兄ちゃん! 今日もいい天気だよ!」
「……」
「洗濯日和だからシーツと布団も洗おうと思うんだよね!」
「……」
「お兄ちゃんが起きてくれたらシーツと布団洗えるんだけどな!」
「……」
「……まだ寝てたい? そっかあ。……いつか、また起きてくれたらそれでいいよ」
アポロニオが昏睡状態に陥って、もう一年が経とうとしていた。
一年前のあの日、アポロニオはいつも通りにアポロンVIとしてフォースを率いてヴィランの討伐に当たっていた。ただ、その日のアポロニオは一生分の不運を使ってしまったのだろう。
初めての戦闘で動きが悪かった部下を庇い、さらにヴィランの攻撃の当たりどころが悪く、その上、神器とのリンクがちょうど切れたタイミングで、プラスして吹き飛ばされた先が鋼鉄の板だった、と。
普段なら強靭な治癒力を発揮するはずのアポロニオだったが、今回は運が悪かった、それ以外に言い様がなかった。今や、体の傷も脳に負った傷も治っているというのにまだ目を覚まさない。医者の説明をまとめれば、「傷が治っても脳が『死んだ』と誤認している状態なのではないか」ということだ。つまり、アポロニオは今仮死状態にある。
脳は死んだと錯覚していても心臓や肺はそれに関係なく動いているから、こうしてヴァッカリオの目の前でアポロニオはベッドに横たわって息をしている。そっと口元に手をあてて、アポロニオの呼吸を確認したヴァッカリオは静かに立ち上がった。
今日は洗濯日和だから、いろいろと洗濯をしなければならないのだ。
ヴァンガードに出勤して、エウブレナがまとめた報告書を確認しながらさらさらと署名を行う。
「よお、真面目に仕事してるじゃねーか。……おにーさまの調子はどうだい?」
「んー、いつもと変わらず、って感じかな。別に良くもなってないし、悪くもなってない」
そうかい、とゾエルは静かに笑うと自席についた。しばし、静かな空間が訪れる。
ヴァッカリオが病院からアポロニオを引き取って半年。毎日のように繰り返されたゾエルとの問答にも、そろそろ慣れてきた。
アポロニオが病院に運び込まれた、意識不明の重体だ、と聞かされて取り乱したのが一年前。それからすれば、ヴァッカリオもだいぶ落ち着いて来た。うろたえて、三人娘の前やボスの前でもあまりにも情けない姿を晒したことを思い出す。
ヴァンガードの女傑たちは、そんなヴァッカリオを励まし、尻を叩き、時に慰め、支えてくれている。そのおかげで、ヴァッカリオは心穏やかに、アポロニオの「目覚め」を待つことができていた。
そう、死んだわけではないのだ。ただ、アポロニオは眠っているだけ。きっと、これまで働きすぎたからたまには休みを、という事になったのだろう。そう囁いたのは運命かもしれないし、世界かもしれなくて、そして、決断したのはアポロニオ自身だ。
少しばかり休みが長すぎる気もするが、ヴァッカリオは無理に起こすこともなく、じっと待っている。……できれば、10年経過する前に目覚めて欲しいとは思う。
「そういやお前、知ってるか」
「なにが?」
「童話だよ童話。遠いポリスに伝わる童話だがな、永い眠りについたお姫様は王子様のキスで目覚めるんだとよ」
「……なにそれ」
ゾエルの言葉に、ヴァッカリオは鼻で笑った。アポロニオはお姫様ではないし、ヴァッカリオは王子様ではない。
……もし、アポロニオがお姫様であったとしても、ヴァッカリオは王子様ではない。ただの弟だ。他に王子様を探してきて連れてこなければならない。
ヴァッカリオは頭を振った。ゾエルのせいで、完全に集中力が切れた。席を立つと短く、「パトロールに行ってくる」と言い置いてゾエルの返事を待たずに歩き出す。ゾエルも、特別何か文句を言うわけでもなかった。
「なんだよ、王子様のキスってさ……」
アレイシア達のパトロール予定表を思い出し、被らないような場所を選んで歩みを進めた。ぐるぐる、頭の中を回るのはゾエルが言っていた童話の事だ。王子様のキスだけで目が覚めるなら、なんと平和で簡単な事だろうか。
ヴァッカリオは、アポロニオの弟だ。男だ。30歳をこえた、ただのオッサンだ。だがしかし、兄である、10歳も年の離れたオッサンであるアポロニオに恋をしている。恋、という一言で包んでしまうには重く、苦しいものだったが。
キスができるならとっくにしている。許されるなら、アポロニオに愛を伝え、その身を腕に抱き、キスをしている。許されないから、していない。ただそれだけのこと。
アポロニオは清く正しく平和を愛するアポロンVIだ。そんなアポロンVIが、血のつながった兄弟と恋人関係にある、などというのはとんでもない醜聞である。いくら同性愛や近親愛に寛容なオリュンポリスと言えども、そういったものが忌避される風潮はわずかながらでもあるのだ。
アポロンVIには一点の穢れも許されない。許されないから、ヴァッカリオはアポロニオにキスをしない。
ヴァッカリオがヴァンガードに出勤している間は、英雄庁の厳しい審査を通過した専門のヘルパーがアポロニオの面倒を見てくれている。帰宅したヴァッカリオは、ヘルパーから「特に変わりはありませんでしたよ」と、いつも通りの言葉を聞いてから「ありがとう」とへらりと笑った。
悪くなってないならそれでいい。でも、できれば、早く目を覚まして、自分の口で食事をして欲しい。口にチューブを突き入れられ、栄養剤を直接胃に流し込まれる兄の姿は、そうそう見ていたいものでもなかった。
もっと言えば、また料理をして欲しい。それで、ヴァッカリオは甘すぎる卵焼きに頭を抱えながらも、全部食べ切るのだ。どう見ても二人で食べる量ではない卵料理の数々を、美味しいね、と棒読みでアポロニオに笑いかけながら。
「お兄ちゃん、ただいま」
「……」
「今日は……うーん、何もなかったかな!」
「……」
「オリュンポリスは今日も平和でした! やったね!」
「……」
話しかけてれば、いつか返事が来るかもしれない。それに、外部からの刺激は重要だと医者も行っていた。だから、ヴァッカリオは毎日、アポロニオに話しかけている。なあに、10年の間、話しかける相手もおらず空気に話しかけていた毎日よりよっぽどマシだ。答えが返ってこなくても、目の前にアポロニオがいて、目を閉じていても、呼吸をしていて、動かない手足でも、血が通っていて温かい。それだけでじゅうぶんだ。
じゅうぶんだ。
そう思っていたのに、気がつけば、ヴァッカリオはアポロニオの頬に手を当てていた。昼間、ゾエルが話してくれた童話の件が頭の中をぐるぐると回る。眠り姫は王子様のキスで目覚めるらしい。
「馬鹿らし……」
呟きながらも、ヴァッカリオはアポロニオの頬から手が離せない。二人しかいない部屋の中、音を立てるものも存在せず、ただ何もない時が過ぎていく。
「……馬鹿らし……」
ヴァッカリオの瞳から、雫が一筋零れる。自分は、アポロニオの王子様ではない。アポロニオはお姫様ではない。眠り姫を起こすのは王子のキス、などというのは童話の世界でしかない。
それでも、もし、途方もない奇跡があるのなら。何と馬鹿らしく、自分がみじめで仕方ない、その想いに突き動かされるように、ヴァッカリオはそっとアポロニオにキスをした。
ヴァッカリオはアポロニオが好きだ。愛している。もう一度、まぶたを開けて、あの明るい黄色の、優しい瞳でヴァッカリオを見て欲しい。うるさいぐらいの重い愛で、ヴァッカリオを可愛がって欲しい。全然、ヴァッカリオが思っていることと違う、斜め上の方向から甘やかして欲しい。
「お兄ちゃん……ごめんなさい」
許されないキスをしてしまったヴァッカリオは、眠ったままのアポロニオに許しを請うた。アポロンVIに一点の穢れも許されない、許されないのに、弟は兄にキスをした。王子様が眠り姫にキスをするのは許されるが、弟が兄にキスをするのは許されない。
初めて、ヴァッカリオはアポロニオに「目覚めないで欲しい」と願ってしまった。目覚めなければ、許されざる罪はヴァッカリオだけが背負って生きていくことになる。とんだピエロだ、さきほどまでは奇跡を願って童話に酔ってキスをしたというのに、今は手のひらを返して眠り姫を望む。
本当に身勝手で、汚らわしい、どうしようもない弟であった、ヴァッカリオは。
しかし、その身勝手で、汚らわしくて、どうしようもない弟を、アポロニオはいつも優しく見守って、どんな時でも愛情を注いでくれていた。
ぽたぽた、ヴァッカリオの瞳から零れ落ちた涙はアポロニオの頬を濡らし、筋を作って落ちていく。何筋も。
「……ないているのか、ヴァッカリオ……」
「……あ……?」
掠れたような、小さな囁き。何も音のない静かな部屋の中で、その囁きはしっかりとヴァッカリオの耳に届いた。
「お兄ちゃん……?」
「なくな、ヴァッカリオ」
今度はもう少しばかり力強く。ゆっくりと、恐ろしく緩慢な動作で、長い時間をかけてアポロニオは自分の頬に当てられたヴァッカリオの手に、自分の手を添えた。そして、同じように、まるで太陽が昇るかの様なゆっくりと、ゆっくりとした時間をかけて、まぶたを開く。
「かなしいことが、あったのか」
「お兄ちゃん……お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん……っ!!」
「あまえんぼうだな、ヴァッカリオは」
ヴァッカリオは耐えきれず、アポロニオの胸に顔を埋めて声を上げて大泣きした。アポロニオは、そんな弟の頭を優しく撫でる。
「もう、二度と、目が覚めないかとっ……お兄ちゃんが、死んじゃうかも、って……!」
「そうか……ヴァッカリオ」
アポロニオは一度言葉を区切って、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった弟の顔に笑いかける。
「のぼらない太陽はないよ。そして、弟を一人にする兄もいない」
「うっ……うわぁぁぁ……!」
アポロニオはお姫様であって、ヴァッカリオが王子様であったのかもしれない。それは誰にもわからぬことだが、わかっていることは、ヴァッカリオがアポロニオに、弟が兄にキスをしても、許された、ということだ。
そして、奇跡は起きた、と。
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