2022年5月21日開催のヴァカアポオンリー「バッカナールは太陽とともに」内企画のミニアンソロに寄稿した作品です。前置きが長いけどそうやってちゃんと書いておかないと後でわからなくなるからね……。アンソロは内容を削ったものを寄稿しました。これは完全版の方。
リビングのソファで雑誌を読んでいたヴァッカリオは、アポロニオが何やら荷物を抱えてリビングを横切って往復しているのに気が付いた。どれも、珍しいものだ。
「お兄ちゃん、何してるの?」
アポロニオ宅をそのまま二人の新しい家と定めてからすでに一年近くが経とうとしている。同居を始めてからしばらく経つというのに、アポロニオが持っているものにヴァッカリオは心当たりがない。何とも不審そうな声で尋ねるヴァッカリオに、アポロニオはことりと首をかしげて答えた。「フルートだ」と。
「フルート?」
「ああ。少し、練習をしようと思って」
そう言われてみれば、アポロニオが持っている細長く年季が入った鞄は楽器入れに見えてくるし、持っている紙の束は楽譜な気がしてくるし、足元にある三脚か何かだと思ったものは譜面台ではないかと推測できた。ヴァッカリオはなるほど、と納得しかけて、頭を振った。何を持っているかはわかったが、その理由を教えてもらってない。
「なんでいきなり?」
「今度、アポロン区で文化祭が行われるのだが、その中の出し物で我がフォースが演奏をすることになっていてな」
「へ~」
初耳、と言うヴァッカリオに、アポロニオは目を細めてまだ極秘事項だからな、といたずらっぽく笑った。春の陽気のように、朗らかに。
それにつられて、何となくヴァッカリオもへらりと笑った。アポロニオの顔にこの笑顔が戻ってきたのはごくごく最近のこと。……十年もずっと冷酷なアポロンⅥの仮面を被り続け。それが終われば、今度は常に泣き出しそうな、辛い事を必死に耐える子供のような、そのような表情ばかりを浮かべていたアポロニオ。それが、いろいろなことがあって、本当にいろいろなことを乗り越えて……ようやく、この笑顔を取り戻すことができた。
アポロニオの笑顔を見るたびに、ヴァッカリオは一つ幸せを貰った気持になる。いや、実際貰っているのだろう。十数年分、お預けを食らっていたのだから、これからはその分も取り立てをしていく必要があるのだ、ヴァッカリオは。アポロニオお兄ちゃんにはたくさんの幸せいっぱいな笑顔を生産してもらわないといけない。
笑顔をお互いに乗せたまま、ヴァッカリオはソファの背もたれごしにアポロニオの手元を覗き込んだ。
「お兄ちゃんフルート演奏できるんだね」
「基本は、といった程度だ。素人に毛が生えた程度さ。最後に吹いたのは……いつだったか。もう十年以上前だったかな……」
アポロニオが荷物を持ったまま首をひねる。アポロニオの時間感覚をもってしても、最近、という判定ではないのだから相当昔なのだろう。
「ふーん。ねえ、聞いてみたいんだけど」
「やめておけ、大したものではないぞ」
アポロニオが照れたように頬をかき、首を振った。続いて「お前に聞かせるような音は出せん」とも。ヴァッカリオが急に面白くなくなった。どうやらせっかくの休日なのにアポロニオはどこかでこっそり一人でフルートの練習をするつもりらしい。しかも、市民の為に吹くフルートを。ヴァッカリオの為には吹いてくれないというのか。
ヴァッカリオはわざとわかりやすく唇を尖らせて、そのようにアポロニオに文句を言い立てた。すると、アポロニオは目を丸くしてから……盛大に破顔し、ヴァッカリオの頭を乱暴にかきまぜる。
「ハッハッハ、そうかそうか、お兄ちゃんの演奏がそんなに聞きたいのか」
子供扱いされたヴァッカリオはその手を一瞬、振り払いそうになって――それはせずに、アポロニオの小さな手を取った。少し強めに引っ張って、アポロニオの体を引き寄せる。自らもソファから身を乗り出すと、そのまま驚いた顔をしたアポロニオの唇に噛みつくようにキスをした。二回目は、少しだけ角度を変えて、ゆっくりと。
アポロニオが目をぱちぱちと瞬かせてから、頬を赤く染めた。口をわなわなと震わせているのは、突然のキスに驚いたからだろう。断じて、ヴァッカリオへの拒絶ではない……とヴァッカリオは信じている。
「そーだよ。お兄ちゃんの演奏、聞きたいの。おいらの為だけのお兄ちゃんの演奏会が欲しい」
「お前は……」
「それにせっかくの休日なのに、この唇がおいらじゃなくてフルートに付きっ切りっていうの、やだね」
ヴァッカリオの指先がアポロニオの唇をなぞる。
独占欲を存分に滲ませた甘えた言葉に、アポロニオは頬に手を当てて小さくため息をついた。そのあと、すぐに苦笑を浮かべる。
「さっきも言ったとおり、聞けるようなものではないぞ」
「いいよ、それでも。お兄ちゃんがおいらのために演奏してくれるっていうのがいいんだからさ」
ヴァッカリオのその言葉に、アポロニオは眉を動かす。小さく、「お前のため、か……」と呟くと持っていた荷物を置き、楽器ケースからフルートだけを取り出した。銀色に輝くフルートは新品同様のようだった。アポロニオはフルートだけを持って、ヴァッカリオが座っているソファの隣に立つ。
「では、ヴァッカリオのためだけに、一曲」
アポロニオの少しばかり重々しい言い様に、ヴァッカリオは思わずニヤニヤとした笑みを引っ込めて、目を見開いて兄を振り仰いだ。真剣な顔をしたアポロニオの、小さな桜色の唇がフルートにそっと押し当てられる。
ピンと伸ばされた背筋、フルートを持つすらりと整った手。そこから出てきた音は――アポロニオが言ったとおり、お世辞にも、上手とは言えない音だった。
それでも、アポロニオが奏でるメロディはとてもわかりやすく。たどたどしく紡がれていった旋律を、ヴァッカリオは垂れがちな目をさらに丸く開いて、追いかけるようにつぶやいた。
「は、っぴ、ばー、す、でー、とぅ、ゆー……」
それに気づいたアポロニオがちらりとヴァッカリオを見て笑った。同じ旋律を繰り返し、最後のところで、アポロニオはフルートから唇を離す。
「……ディア、ヴァッカリオ」
「!」
穏やかに微笑みながら言われたヴァッカリオの誕生を祝う言葉に、ヴァッカリオはどきりと心臓を跳ねさせた。今日は誕生日ではない、なのに、アポロニオから溢れんばかりの、ヴァッカリオへの愛が伝わってくる。
アポロニオはその笑みをたたえたまま、フルートを下した。
「……練習中だったのだ、この曲は」
「練習中……」
「そう。どうしても……この『ディア』と名前の部分がうまく吹けなくて。だからこの曲はここまでだ」
練習をしていたのを知らなかったし、聞いたこともなかった、とヴァッカリオは言いかけて口を噤んだ。鞄はずいぶんと年季が入って古そうだったのに、中身のフルートは新品同様で。アポロニオが最後にフルートを吹いたのは、十年以上前、で。つまり。
「ずっと、練習してたの」
「……ああ。練習、していた。それから、仕事が忙しくなって、やめてしまった」
ヴァッカリオの問いに対するアポロニオの答えは、過去形だった。
本当に仕事が忙しいから止めたのだろうか。ヴァッカリオのためなら、どんなに忙しくても毎日弁当を用意し、ヴァッカリオの誕生日には毎年プレゼントと手の込んだ料理を用意してくれたアポロニオが。
ヴァッカリオは我慢できなくなって、沸き上がった激情のままにソファから飛び出して、アポロニオに飛びついた。
「うわっ!」
「お兄ちゃん……!」
嗚呼、どうやってこの想いを兄に伝えれば良いのだろう。冷静で理知的で、芸術に明るいアポロニオと正反対の感情家で口より先に手が出るヴァッカリオは、想いを奏でるメロディも美しく飾る色彩も宙に吐き出す言葉も、何も持っていない。
だからヴァッカリオは、アポロニオを強く抱きしめた。自分より低い頭を抱き寄せて、金色の髪に何回もキスをした。何より先に体が動いたのだから、体から熱が伝わればいい。アポロニオの、フルートを聞いて、ヴァッカリオがどれだけ心を揺さぶられて、涙をぼろぼろと零したのか。後悔と自分への怒りと嬉しさと兄への愛しさと、ヴァッカリオが持ちうる全てが混ざり切った気持ち悪いほどの感情が、アポロニオに伝わって欲しい。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん!」
「……ヴァッカリオ」
ぎゅうぎゅうと抱きしめる弟の大きな背中に、アポロニオも腕を回して抱きしめ返す。ヴァッカリオの全てを優しく受け止めてやる。身長差があるからアポロニオがしがみつくように見えるが、甘えているのはヴァッカリオで、そして抱きかかえているのはアポロニオだった、間違いなく。
「お兄ちゃん、今年の誕生日、フルートで吹いてよ」
「いいぞ」
「練習してくれる?」
「もちろんだとも。本番までにはちゃんと吹けるようにたくさん練習しよう」
アポロニオは肩を揺らして笑いながら、ヴァッカリオの背中をぽんぽんと叩いた。アポロニオの肩に鼻先を埋めたヴァッカリオの肩が震えている。ず、と鼻水をすする汚い音が聞こえて、アポロニオはよしよしと肩に乗ったヴァッカリオの頭を撫でてやった。
ヴァッカリオはようやく身を起こして、楽しそうに笑うアポロニオの顔を正面から見据えた。きらめく兄の瞳に映る自分の眼は、涙が滲んで充血している。それを恥ずかしく思い、ヴァッカリオは乱暴にシャツの袖で目元を拭った。アポロニオはそれを静かに見守っている。
「……そうだヴァッカリオ、お前、勘違いしているようだが」
「ん、なに」
赤くなった鼻を鳴らすヴァッカリオと対照的に、アポロニオは頬をほんのりと赤く染めて楽しそうに笑った。そして、そのままヴァッカリオの首にぶら下がるようにしてヴァッカリオの唇に自らの唇を押し当てる。ヴァッカリオほどうまくはない、ぎこちないキス。
「私の唇は、フルートのものではなくて、ずっとお前のものだぞ」
「……お兄ちゃん!」
アポロニオがそう言ったから。ヴァッカリオは遠慮なく、その唇を貪った。
ヴァッカリオのものであるアポロニオの唇からは、美しく、愛に満ちた祝の音色が紡ぎだされていく。……今はまだ、たどたどしいが。その音も、今年の冬には滑らかになるだろう。来年にはもっと豊かな音色に。
ヴァッカリオは、それが今から楽しみで仕方がない。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます