夜の帳に甘い恋 - 3/3

ヴァッカリオは最後の患者を笑顔で見送ってから、『診療終了』の札を玄関の扉に吊るした。白衣のまま、家に戻るとコーヒーをいれてから今日診察した患者のカルテを整頓する。

魔女狩りの悪夢から、10年が経っていた。いまだ、アポロニオからは何の連絡もない。最初のうちこそ市内の宿に泊まっていたヴァッカリオだったが、思っていたより長丁場になりそうだ、と気づいてからアポロンシティの一角に家を借りて一人暮らしを始めた。本当はアポロニオと過ごした「自宅」に帰りたかったのだけれど、あそこはアポロニオの魔法によって結界が張られており、魔力のないヴァッカリオでは見つけることができなかったのだ。

代わりに、どこぞの騎士団が森の中で魔女の家を見つけた、という噂を聞いた。そして、その家の中はもぬけの殻で、長らく誰も住んでいないようだった、ということも。

魔女狩りはすでに5,6年前にはすでに下火になっていた。アポロニオのように市民に慕われている魔女は多く、各地で魔女狩りに反対する市民運動が活発になっていったのだ。その活動は大きなうねりとなって国を飲み込み、元々、王族に不満を持っていた市民たちの力は、王族へのクーデターという形で暴発した。

王族への不満をそらすための魔女狩りが、巡り巡って自分たちの首を絞めることになったのだから、とんだ笑い話だ。クーデターが終わってから国は一時期混乱状態にあったが、それからしばらくして、魔女と呼ばれる存在の権利を回復する、と各地に通達が出された。

(だから、もうお兄ちゃんも魔女として帰ってきても大丈夫なんだけどな……)

カルテを閉じて、すべて棚にしまい込むとヴァッカリオは白衣を脱いだ。今日も夕飯を食べながら、アポロニオと住んでいた時には飲まなかった酒を煽る。昔、名前を付けてもらった時に酒飲みになるだろうと言った兄の顔を思い出しながら、深酒するのがヴァッカリオの日々になっていた。

一人の家で、ヴァッカリオはずっとアポロニオを待っている。もちろん。アポロニオを探すこともしたが、よほどうまく隠れてくれたようで手掛かり一つ掴めなかった。

しかし、兄は「必ず迎えにくる」と言ってくれたし、何より、アポロニオが授けてくれた「ヴァッカリオ」という真名に組み込まれた魔女の加護はまだ息づいている。――それだけが、ヴァッカリオが生きる支えだった。一人の夜も、胸に手を当てて自分の心臓の鼓動と、兄が授けてくれた名前のぬくもりを抱きしめることで、ヴァッカリオは次の朝を落ち着いて迎えることができた。

アポロニオは生きている。間違いなく。魔女も人狼も、寿命は長い。だとすれば、きっとそのうち……迎えに来てくれるはずだ。初めてであった時のように、優しい笑みで暖かい手を。

ヴァッカリオはワイングラスを傾けて、窓から見える満月を見上げた。人狼の力は満月の夜、最大になる。兄を思い出して瞳がじわりと熱くなった。今、鏡を見れば恐らく薄い茶色は鳴りを潜め、金色に輝く瞳になっていることだろう。アポロニオが綺麗だ、と何回も褒めてくれた人狼の瞳に。

「……アポロニオお兄ちゃん……」

つるり、口から漏れ出た名前をワインで自分の中にもう一度流し込む。まるで昼の太陽のようにヴァッカリオを照らす満月――の前を、小さな影が横切った。人狼の視力でなければ、見落とすほどの小さな小さな影。

「!」

ヴァッカリオはワイングラスを手から滑り落とす、床に派手な音を立てて落ちたグラスはワインと共に粉々に砕け散った。しかし、ヴァッカリオはそのようなことを気にもせず、慌てふためいて自宅の玄関を蹴破って広場へと急ぐ。

ヴァッカリオがいつも窓から見ていた空は、アポロニオがアポロンシティの広場に降り立つときに必ず通る飛行ルートだ。いつか、そこを兄が通るのではないかと期待して、ヴァッカリオは毎日毎日、その窓から空を見上げていた。

「――お兄ちゃん!」

広場に10年前と同じようにふわりと降り立った小柄な人影に、ヴァッカリオは飛びついた。その人は、抱き着かれた衝撃でたたらを踏んだが、倒れ込むことなくヴァッカリオの巨体を抱きとめ、そして懐かしく、愛しいあの声で名前を呼ぶ。

「ヴァッカリオ!」
「お兄ちゃん!待ってた!ずっと待ってた!」

きつく、アポロニオを抱きしめるヴァッカリオ。金の瞳からは、耐えきれなかった涙がぼろぼろと流れ落ち、腕の中のアポロニオの顔や頭に降り注いだ。

「ヴァッカリオ、遅くなった……迎えに、来た」
「うん……!」
「寂しくさせてすまなかった、いろいろ、あったんだ」
「……大丈夫、おいら、一人でもちゃんと……」

アポロニオもヴァッカリオを抱きしめ返し、すっかり分厚くなった弟の胸に顔を埋めた涙を流した。ヴァッカリオの心音が、アポロニオの心を震わせる。

「……ヴァッカリオ、お前に言われた通り、私は誰にもこの唇を明け渡さなかったぞ」

ひっそりとアポロニオが呟くと、ヴァッカリオは身を離して、涙に濡れたアポロニオの顔を見つめた。ぐす、と鼻を鳴らすとヴァッカリオは、そっとアポロニオの頬に片手を添える。

「……じゃあ、もう一度もらってもいい?お兄ちゃん」
「もちろん、ここは……お前だけのものだよ」

アポロニオが薄く微笑んだのにヴァッカリオも微笑み返すと、そっとその唇に自らの唇を重ね合わせた。明るい満月の下、広場に二人の影が長く伸び、そしてしばらく重なり合っていた。

 

「仕立て屋の主人には頭が上がらないな」
「『ご注文なさったのはアポロニオ様なので、ご本人が来るまではお渡しできません』の一点張りだったからね」

まさか、10年も保管してくれていたとは知らなかったけど、とヴァッカリオは少し苦笑いしながらタキシードの襟を調整した。
10年前の採寸で入らなかった部分は、仕立て屋がすぐに微調整を行ってくれた。お代はいらない、という。二人の再会をお祝いさせてください、とのことで。気恥ずかしくなりながらも、二人はその好意をありがたく受け取った。

「それにしても、10年でより一層、男の魅力が増したようだな!素晴らしい!」

無邪気に褒めるアポロニオに、ヴァッカリオは呆れたような顔をしたが、黙ってほうきに乗るアポロニオの後ろにまたがった。そして、アポロニオの腰に手を回し、体を密着させる。

「そりゃ、好きな人がいて、毎日毎日、その人のことばかり考えていたからね……おいらのこと、こんな風に育てたのはお兄ちゃんだよ?」
「……ッ!」

耳元で兄が褒める「艶やかな声」でささやけば、アポロニオは耳まで真っ赤に染めて俯いた。くすくす、とその様子にヴァッカリオは笑い声をあげる。

「ほら、お兄ちゃん、そろそろ行かないと魔女集会に遅れちゃうよ……おいらのこと、みんなに自慢してくれるんでしょ」
「あ、ああ……どこに出しても恥ずかしくない、自慢の弟で……」

恋人だからな、とアポロニオは振り返ってヴァッカリオの顎にキスをすると、してやったりと言わんばかりに笑みを深めた。今度は、ヴァッカリオが顔を赤らめる番だった。

顔を赤くしつつも、朗らかに笑い声を上げる二人を乗せて、一本のほうきは空を駆ける。

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