結局、アポロニオは半分ほどミニキャロットを食べたところで満腹になったらしく、非常に申し訳なさそうに耳を垂らして「残しても良いだろうか」とヴァッカリオを見上げながらうるうると瞳を潤ませて(ヴァッカリオ談)言ってきたので、ヴァッカリオはもちろんいいよ、と明るく応じた。
「っていうか、これぐらいのサイズなら今食べちゃえばいいしね」
ヴァッカリオはアポロニから受け取ったミニキャロットを口に放り込んだ。普通のニンジンとは違う、甘い味わいが口の中に広がる。ヴァッカリオの好みかどうかといえば、まあ……いや待て、お兄ちゃんの食べかけという観点で言えば大好物な気がしてきた。
またしても謎の怪しい扉を開きそうになったヴァッカリオは慌てて頭を振る。あぶない、本当にあぶない。ごく一部のアングラ界隈で「アポロンVIは性癖破壊に定評がある」と言われているのをヴァッカリオは知っている。今日だけで何度謎の扉を開きそうになったことか。改めて、アポロンVIの恐ろしさを知るのだった。
「ヴァッカリオ?」
「ん、なんでもないよ」
見れば、アポロニオは先ほどウェスターが用意してくれたひんやりシートに寝そべってくってりとしている。本当に先ほどから、いつも生活態度に厳しいアポロニオとは思えない行動が多い。
「お兄ちゃん、暑い?」
「ああ……このシートの上にいると、ちょうど良いのだ」
「そう……この夏に、長袖ジャケットで黒のスポーツレギンスじゃねえ」
「うむ。……いつ治るかわからないのだから、そのうち服も調達しなければならんな……」
「そうだね……」
現実に直面した二人は、同時に頭をひねった。同じ角度で、同じように。そっくりな動きをしてはいるが、頭の中はまったくもって正反対で。
アポロニオは、さてこのサイズの服が市販されているのだろうか、と悩み始め。ヴァッカリオは、ドール系の服ってたくさんバリエーションあるだろうし何を着せようかななんなら採寸してオーダーメイドしたらいつ届くかな、と悩んでいた。全くもって、正反対の悩みだ。
「服は明日、ちょっと考えてみるよ」
「すまない、迷惑をかけるがよろしく頼む」
「いいよお。それにしても、うさぎになった時に服もそのままで良かったね」
「全くだ」
ヴァッカリオの言葉に、アポロニオが苦笑した。全裸になってしまっていたら、アポロンVIの名に傷がついたかもしれない。……ついでに、もしかしたら、ちょっと見えないところにこっそりつけておいたキスマークが第三者にバレてしまっていたかもしれない。
いやあ、良かった、とヴァッカリオは改めて胸をなでおろした。
ヴァッカリオはウェスターがどっさりと持ち込んできたうさぎの飼育グッズを、アポロニオと一緒に検分しながら仕訳けていく。やはりさすがにアポロニオも牧草にはそそられなかったらしい。
「うーん、せっかく用意してもらったけど、さすがにブラシは……」
「……う」
「え、なに、お兄ちゃん、どうかした?」
「いや、なんでもない」
ブラシを「不要なもの」に追いやったところで、アポロニオから妙な声が漏れた。本人はなんでもない、の一点張りだがこれは絶対に何かある。こういうことに、ヴァッカリオは非常に敏感なのだ。
アポロニオが本当はどういう想いをもって、それを押し殺して、我慢してきたかは様々知っている。それが命を賭けたものであれ、日常の些細なものであれ。
そして、ここ10年程度は、あまりにもアポロニオに多大な我慢を強いてしまった。それを大いに反省し、また、その罪滅ぼしとしても、ヴァッカリオはアポロニオにこれ以上無駄な我慢はして欲しくないと思っている。
「ね、お兄ちゃんどうしたの、何か気になることあったんでしょう?」
「お前の手をこれ以上煩わせるわけには……」
うさぎの耳をこれでもかと垂れさせて、アポロニオが小さなか細い声でぼそぼそとヴァッカリオを拒絶する。となったら、ヴァッカリオは今の状況から推測するだけだ。ブラシ、そして自分の手を煩わせてしまうこと……なるほど。
「ああ、お兄ちゃん、ブラッシングして欲しかった?」
「!! い、いや、そんなことは……!」
「まあまあ。今、うさぎの性質にも結構、精神引っ張られてるんでしょ? ブラッシングして欲しいって思っても仕方ないよ」
でもブラシのサイズがねえ、とヴァッカリオは呟きつつ、無意識にアポロニオの頭に指先を伸ばしていた。その辺の草むらで昼寝中に出会った猫を撫でたときのように。
耳の間、頭頂部を指で優しく撫でる。耳の根元は少しだけひっかくようにしながら。
「……あ」
気づいた時には。アポロニオはずいぶんと気持ちよさそうに目を細めて、ヴァッカリオの指を受け入れていた。これはもう、本日何回目ともわからない「なにこれかわいい」である。
「お兄ちゃん、気持ちいい?」
「んー……」
どうやらずいぶんと気持ち良いらしい。耳の先がヴァッカリオの指の動きにあわせて、ぷらぷらと揺れている。完全、脱力モードだ。
「ヴァッカリオ」
「なに?」
「さきほどみたいに、抱えてくれないか?」
「いいけど?」
両手を差し出してやれば、アポロニオはいそいそとひんやりシートから移動してきた。思ってたより冷たいものが両手に乗ってきて、少しだけヴァッカリオは驚く。
「冷えすぎた?」
「いや、そういうわけではないが……」
ごにょごにょ、と口を濁すアポロニオ。どういうことだろう、とヴァッカリオは不思議に思いながらも、椅子の背もたれに背を預けて自分もリラックスした姿勢をとった。
そのまま、なんとなく小動物にするように、手を胸の近くにおいてからアポロニオの頭をくしくしと指先で撫でる。アポロニオはヴァッカリオの胸を背もたれにして、温泉に入ったおじさんの様な声を出していた。大丈夫、それでも可愛い。そもそも、中身は普通にアラフォーなのだから、そういう声が出ても単に年齢どおりなだけで何もおかしくはないのだ。
「お兄ちゃん、疲れがでてきたのかな」
「……そうかもしれんな。いきなり、景色も変わってしまって、このような小ささになっては何も仕事はできんし」
「まあそうだね」
最近、それなりに休みを取るようになったといってもそれはあくまでも「一般常識の範囲内」というだけであり、言うほど休みを大量にとっているわけではない。まだまだ、ワーカーホリックの域は出ていないのだ。
「環境が激変して、緊張していたのが、いまさら解けてきたのかもしれん」
「そう。じゃあ、ゆっくりするといいよ」
「うむ……お前に撫でられていると、ずいぶんと気持ちが良い。お前の背中も、手も、暖かくて、心地が良いのだ」
アポロニオが珍しく、甘えたことを言ってくる。もとからヴァッカリオのことを褒めるのに余念がない男ではあるが、それでもたいていの場合は「自分とは関係のない要素」でヴァッカリオを褒めるのだ。このように、「自分が気持ちいいから」という理由でヴァッカリオのことを褒める……と言っていいかはわからないが、とにかく、肯定的に話すのは実に珍しい。
「ふふふ、じゃあそのまま寝ちゃってもいいよ。ところで、もっと撫でてほしいところとかある?」
「ん、耳の付け根あたりを……」
「了解」
ヴァッカリオの武骨で太い指が、アポロニオの小さな頭をくりくりと撫でまわす。アポロニオはその動きに合わせて首を動かしながらも、実に気持ちよさそうにしていた。そのうち、頭をこくり、こくり、と落とすことが多くなり……ヴァッカリオが小さな声でお兄ちゃん、と呼び掛けても反応しなくなっていた。
そうっと手の中のアポロニオをのぞき込めば、案の定すぅすぅと可愛らしい寝息を立てている。
「う……うううう……か゛わ゛い゛い゛……」
それを恭しく自分の目線に掲げながら、ヴァッカリオは悶絶していた。かわいい、かわいすぎる。
あんなに暑がってひんやりシートの上で寝そべっていたのに。甘えたくなって、わざわざ熱いだろうヴァッカリオの手の中に移動してきて、さらに密着までしてきたのだ。
そして、気持ちいい、とヴァッカリオの指を嬉しそうに受け入れながら……おっと、何か違うものを想像しそうになったぞ、とヴァッカリオは首を振る。こんな、かわいくてピュアな生き物を前に、本日ばかりはそちらも閉店状態だ。
ヴァッカリオはアポロニオを起こさないように、うさぎ用の小さなベッドに寝かせる。毛布はいらないだろう、暑がっていたから。ひんやりシートも、さすがに寝ている間までは体を冷やしすぎるだろう。
小さな小さなベッドの中で丸くなって寝ているアポロニオをカメラに収めまくったヴァッカリオは、満足そうに息を吐いた。実にいい、実に素晴らしい。普段から寝相も大変にお上品なアポロニオが、うさぎの性質に引きずられているのか胎児のように丸くなって寝ている。
「どこのどいつか知らねえが、マジでよくやった……!」
顔も知らぬヴィランに感謝をささげながら、ヴァッカリオはいそいそとグッズの片づけを進める。そうだ、給水機の水もきれいなものに変えてやらねば。
起きたアポロニオは、きっとさきほどのように「のどがかわいた」と言って、給水器から水を飲むのだろう。ノズルに口をつけて、ちゅうちゅう、と。
それを想像するだけで、あまりの可愛さにヴァッカリオは弾け飛びそうになってしまう。どうしても自堕落な自分だから、ペットを飼うことなんて一生ないと思っていたのだが……まさかの。
かわいいとかわいいが合体する、それすなわち最強なり。
なるほどね、とヴァッカリオは新たな謎の扉を勢い余って開けたままに、納得しながらアポロニオのためにうさぎ飼育マニュアルの続きを読み始めるのだった。
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