神話還りの力は、まさに神業と言えるもので、常人にはまるで理解できないことを平然とやってのける。そんな神話還りの一人でもアポロニオだったが、まさか二時間前に採寸して詳細を詰めたスーツがもう出来上がるとは思ってもいなかった。確かに、待っている間に何回かスーツのようなものでフィッティングを繰り返してはいたが。それよりも、出された茶と菓子を味わいながらのんびりと「神話還りの就業緩和に関するメリットとデメリットについて」を二人で討論していた時間のほうがよほど長い。
「いやあ……話には聞いていたけど、すごいね、これは」
ヴァッカリオもアポロニオと同じように、自分用の完成したスーツを見て動揺している。神話還りの就業に規制が厳しく入っていたのは、こうして「一般人の仕事を奪う」可能性があるからというのもあった。実際、こうしてみると、仕立てに数倍あるいは数十倍の時間をかける店に誰が頼むのか、という考えに至るのも頷ける。
「これで……他の店は大丈夫なのか?」
「英雄庁が許可だしてるからにはそんなマズイことにはならないと思うけど」
ひそひそ、とささやくように言葉を交わすアポロニオとヴァッカリオに、オーナーは苦笑しながら裏側を教えてくれた。
今回、ここまで早く仕上げられたのはヴァッカリオがすでに二人の体型の大まかなデータを送っていたこと、事前予約がかなり早い時期だったこと。そして何より、ほかの店より早い分、料金は相当高額である、とのこと。
それを聞いて、アポロニオは隣に立つヴァッカリオの顔をじ、と見た。ヴァッカリオはひょい、と顔を背けて兄の詰問から逃げようとする。アポロニオはわかりやすく大きなため息をついてヴァッカリオから視線を外した。他に人間がいるところで問い詰めずとも、後でゆっくりやればいい。今日は、バレンタインデートなのだから。
「……で、これが私のスーツ、か」
アポロニオはハンガーにかけられた白のスーツをしげしげと眺めた。襟や袖口、裾にいたるまで細かに金の糸で刺繍が縫われている。しかも、どことなくアポロンVIの月桂冠やアポロンフォースのマークを髣髴とさせるデザインだ。同じように金のカフスボタンが輝いている。かと思えば、中は紺色のシャツに、黄色のネクタイと黄色のジャケット。ネクタイとジャケットは金色の刺繡やカフスボタンとはまるで違った色合いだ。同じ系統の色であるはずなのに、全く違うものを感じる。
「……いいね、さすがプロ。お兄ちゃんらしいデザインに仕上がってるじゃない」
気づけば、アポロニオの隣でヴァッカリオも興味深そうにアポロニオのスーツを見ていた。ネクタイとジャケットの色について「よくわかってるじゃないか」と何回も満足げに頷いている。
「お前のスーツも、お前らしいな」
「そうかな? お兄ちゃんとおそろいってほどじゃないけど、結構似てる感じだよね」
色こそ正反対で黒をベースとしたスーツだが、銀の糸でアポロニオのスーツ同様に刺繍があちこちに縫われている。もちろん、ディオニソスXIIの葡萄の蔦を模しただろうデザインだ。ほんの少し、光の加減でようやくわかる程度に緑がかったシャツに、濃紫のネクタイ。アポロニオの煌びやかなスーツに比べれば、ずいぶんと落ち着いた色彩だ。
個人個人で着用しても似合うだろうし、二人で並んでいれば明らかに「対になっている」とわかるデザインに仕上げられている。そこにオーナーの遊び心、あるいは自分たちカップルへの配慮を感じて、アポロニオはくすぐったくなってしまった。
「じゃ、早速着てみようか」
アポロニオも頷いて、試着室で着替えを済ませる。二時間で作り上げたにしては、完璧な着心地だった。きつすぎずゆるすぎず、ちょうど良い。
これはすごいな、と鏡の前でスーツを着た自分を眺めて、両腕を動かしたり、屈伸してみたり……素晴らしい、伸縮性もかなり高いようだ。
「何やってんの」
「有事の際にどこまで動けるのかと」
「……まったく、さっきの討論もそうだけどお兄ちゃんも休みの日ぐらい仕事のこと忘れればいいのに……」
ヴァッカリオは頭を抱えた。昔から仕事人間だったのは確かだが――例の10年の間に、それは相当に悪化していたらしい。後から807連勤もしたと聞いた時には、本当に後悔したものだ、自分の振る舞いを。あの時はあれが最善だと思っていたとはいえ、もう少しやりようがあったのではないかと。
ヴァッカリオにとって、アポロニオという兄は折れることもなく膝をつくこともなく、背筋を真っすぐに伸ばして前に向かって突き進んでいく太陽のような、市民の規範となるべきトップヒーローだった。そうだとずっと思っていた。だが、そんな兄が、ヴァッカリオの前では子供のように泣きじゃくり、ヴァッカリオに縋り付き、ヴァッカリオにだけ心の悲鳴を聞かせてくれる。それを知ってからヴァッカリオは、アポロニオのことをずいぶんと愛おしく思い、そして、たっぷりと甘やかしたくなってしまった。
「お兄ちゃん」
「なんだ?」
「よく似合ってるよそのスーツ」
褒めながら、そっとアポロニオに体を近づけ、覆いかぶさるようにして顔にキスの雨を降らせた。アポロニオが逃げるように腕の中でもがくが、ヴァッカリオは離す気はならない。バレンタインデートの日に、仕事のことばかり考えているアポロニオにはお仕置きだ。アポロニオが仕事のことなんか忘れて、ただ一人の「アポロニオ」としてバレンタインデートを楽しめるように、たっぷりお仕置きだ。
ようやく、ヴァッカリオが満足してアポロニオを解放するころにはすっかり顔を赤く染めて、唇をわなわなと震わせていた。
「こっ、このような、人前で……!」
「え、人ならいないよ? ほら」
ヴァッカリオがそう言い、アポロニオが驚いたようにヴァッカリオの体越しに室内を見渡せば、さきほどまで説明してくれていたオーナーも、試着を手伝ってくれたスタッフもすべていなくなっていた。いつの間に、とアポロニオがヴァッカリオをにらみつけるも、ヴァッカリオは口笛でも吹きそうな勢いでどこ吹く風だ。
「お兄ちゃん、次の予定もあるから、ほらほら、移動移動」
「おい、待て、着替えは……」
「ああ、車に積んどけば大丈夫。次のところはドレスコードあるから、この服で行くよ」
「支払いはどうするのだ!」
「カード一括もう払った」
アポロニオの背中をぐいぐいとヴァッカリオが押して、部屋を出る。入口にはにこやかな笑顔を浮かべたスタッフが勢ぞろいしており、最後にスーツに合うようなこれまたオシャレな金の文様入りの靴を履かされ、アポロニオは店からヴァッカリオに連れ出され、スタッフに追い出されることになった。
車に乗せられて、仕方なくシートベルトを留める。運転席に乗り込んできたヴァッカリオにじろり、と視線を向ければさすがに観念したのかヴァッカリオは苦笑いを浮かべた。そのまま、エンジンをかけて車は走り出す。
「ごめんて、ちょっと強引だった」
「私は何も聞いてないぞ」
「サプライズだからね。そんなへそ曲げないでよ」
「……いくらするんだ、このスーツ一式」
アポロニオが足を組んでしみじみと靴からズボンからジャケットまで改めて見直す。ただでさえ上等な生地に繊細な刺繍、これだけでも普段のスーツより相当に高額であろうに、短時間仕上げのオプション付きだ。さすがに世間に疎いアポロニオでも、これらが目を剥くよう金額になるだろうことはわかる。
「ひみつー。それはおいらからお兄ちゃんへのプレゼントだから」
「高すぎるだろう! せめて、自分の分は自分で……」
「あのさ」
まだ言い募ろうとするアポロニオを、ヴァッカリオは静かな、それでいて強い声で遮った。タイミング良く、車は信号にひっかり、社内に静けさが舞い降りる。ヴァッカリオはハンドルを握って前を向いたままだ。
「……バレンタインのプレゼント、ってのは本当なんだけど。それと一緒に、これまで支えてきてくれてありがとう、って」
「!」
「ちゃんとお兄ちゃんにお礼したことなかったなーって。それで……ほら、前まではおいら、働けてなくて……働かずに、給料だけもらってたじゃん?」
ヴァッカリオの自虐めいた言葉に、アポロニオはすぐに違う! と叫んだ。同時に、信号が青になる。アポロニオが続ける言葉とともに、再び車は走り始めた。
「働かなかったのではない、働けなかっただけだ。お前には給料をもらう資格があった。それに、ヴァンガードの隊長として立派に職務を果たしていたのだろう? 何も前線に出て戦うだけがヒーローではない」
「……お兄ちゃんならそう言ってくれると思ったよ。へへ、ほんと敵わないね」
嬉しそうにヴァッカリオは顔を綻ばせた。アポロニオはヴァッカリオにずいぶんと甘い。10年前のあの時、ヴァッカリオがわざとアポロニオを煽って、酷い言葉を引きずりだすのにも一苦労したほどだ。アポロニオは、何があってもヴァッカリオの味方だ。例え、態度が熾烈であっても、その裏には、愛がある。
「まあそれはそうなんだけどさ。やっぱ、自分の区切りとして。ちゃんとまともな体になって、『ディオニソスXII』として働いて――そのお金で、お兄ちゃんにプレゼントを買ってやりたかった」
ほら、10年以上前は規則違反の減給だらけで給料なんて雀の涙だったし、とヴァッカリオが面白そうに言えば、表情を固めていたアポロニオも纏う雰囲気を緩めてそうだったな、と笑みを零した。
「復帰してから半年間。貯金してたんだよね、お兄ちゃんのための兄孝行貯金」
「ヴァッカリオ……! お前……!」
「遅くなってごめんお兄ちゃん」
アポロニオは視界が滲むのを感じた。しかし、仕立てたばかりのスーツに染みを作るわけにもいかない、ヴァッカリオが貯金して買ってくれたハンカチを汚すわけにもいかない。だからぐっとこらえて、震える声で「遅いだなんてこと、あるものか」と言ってやった。それに、ヴァッカリオも照れたように頬をかいて答える。
「もちろん、それだけじゃないよ」
「そうなのか。……それはそうだろうな、これだけ高額なのだから、釣り合わないだろう」
「まさか! お兄ちゃんに面倒見て貰ってたこと思えば、安いもんだけど……まあいいや、それはおいておいて」
ふとヴァッカリオが視線を少しだけ上にあげる。アポロニオもつられて視線をあげれば、フロントガラスの向こうにはディオニソス区で最も高い超高層ビルがあった。
「着いちゃった」
「ここは?」
「ん、行ってからのお楽しみ、ってことで」
ヴァッカリオが運転する車は、案内板に従って地下駐車場に飲み込まれていく。ぐるぐる回り、右に左に折れ曲がり、よくわからぬままに辿り着いた駐車場の一角で、アポロニオは助手席から降り立った。目の前には、きれい、という他に表現のしようがないぐらい磨かれぬいた大理石で出来たエレベーターがある。
これはまた、高級そうなところだぞ、とアポロニオはヴァッカリオをちら、と見たがヴァッカリオは気づく様子もなくエレベーターを呼び出していた。
「……ヴァッカリオ、私のためと言ってくれるのはありがたいが……無駄遣いが過ぎるのではないか?」
チン、と小さな音を立ててエレベーターが止まる。二人は無言のまま乗り込んで、ヴァッカリオは操作盤から最上階らしき数字のボタンを押した。エレベーターは音もなく上昇していく。
「無駄遣いじゃないよ、お兄ちゃんのために使ってるのに無駄があるわけないじゃん」
「これまでの礼というなら、このスーツで十分どころか有り余るほどだ」
「あ、そっか、さっき話の続きだったね」
地下を抜け、地上の低層を超えたエレベーターはどんどんディオニソス区の街並みを下に、青空へと上がっていく。
「これはね。『これからもよろしくお願いします』のプレゼント」
「は……」
「だから、健康になってから贈りたかった。これから、ずっとお兄ちゃんと一緒に生きていけるとわかってから、贈りたかった」
ヴァッカリオの手がアポロニオの手に伸びる。大きな両手が、小さなアポロニオの片手を包み込んだ。
自分の保険金も、遺産の相続先も、すべてアポロニオにしてある。もし、自分の体が治らないようであれば……折を見て、スーツだけでもアポロニオに仕立ててやるつもりだった、ヴァッカリオは。家具を新しく買い替えてやったり、調理器具を新しく買い替えてやったり。そうやって、物として残るものだけを、アポロニオに贈るつもりだった。いつ自分がいなくなっても、アポロニオが自分のことを思い出して寂しくならないように。
それが、何の因果かヴァッカリオの体はすっぱり治って、これからもアポロニオのそばにいることを許されるようになった。まだ生きていていい、と。
「お兄ちゃん、遅くなったしこんなところだけど。これからも、ずっと一緒に、死ぬまで一緒にいてください」
エレベーターは昇り続けている。二人の周囲にはもはや青空だけが広がっていて、まるで天国にでも昇るかのようだ。
アポロニオは首を振ってその想像を振り払った。代わりに、自分の手を包み込む、血の通った温かいヴァッカリオの手にもう片方の手を重ね合わせた。
「もちろんだとも。私こそ、お前に頼みたい。今度こそ、一緒にいてほしい。置いていかないでくれ、つらいことがあるなら一緒に抱えさせてくれ」
「……うん」
ヴァッカリオはまるで子供のように、アポロニオの静かな言葉に頷いた。今度はもう間違えない。あの時、アポロニオを突き放して一人ですべてを抱え込もうとしたことが、正しかったのか、悪かったのか。それをヴァッカリオの口から説明するには、まだ時間がかかる。それでも、アポロニオを一人にさせてしまったことだけは間違いだったと、ディオニソスXIIではなく弟としてのヴァッカリオは断言できる。
まるで空気を読んだかのようにぴたりとエレベーターが止まった。そのことに、どことなく二人で顔を見合わせて肩を揺らす。
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