ミルキー・バレンタイン - 3/3

 

「さ、お兄ちゃん、これがおいらからのプレゼントだよ」
 
手を引かれるがままに、アポロニオは一歩を踏み出す。エレベーターホールには静かにクラシックが流れていて、一目でハイクラスだとわかる厳かな雰囲気が漂っていた。
 
ヴァッカリオはアポロニオの手を握ったまま、受付に声をかける。すぐに店員がにこやかに微笑み、そのレストランの店内へと案内してくれた。アポロニオは黙ってヴァッカリオの手を握り返して、後に続く。
 
一つ、窓側の席に案内されて椅子に座った。ディオニソス区どころか、ハデス区まで見渡せそうなほどだ。アポロニオはその景色の素晴らしさに目を見開く。
 
「良い席だな」
「空いてて良かったよ。ここ、超人気だから……特にバレンタインデー当日は、ね」
「……予約、大変だったのか?」
「まあまあ」
 
実際のところ、ヴァッカリオは予約開始日に電話に張り付いてて何回も予約センターにコールをかけたのだ。もちろんゴッドナンバーズのディオニソスXIIだと明かせば、席の一つや二つぐらい簡単に確保できただろう。例えば、アポロンVIを接待するだとか。だが、それは、一人の男、ヴァッカリオとしてのプライドが許さない。権力を振り回して市民の幸福を横から搔っ攫うだなんて論外だし、ヴァッカリオは自分の、個人の力で予約を勝ち取って、アポロニオを幸せにしてやりたかったのだ。
 
ヴァッカリオの答えに、何かを察したアポロニオだったが何も言わず、ただ穏やかに「そうか。ありがとうヴァッカリオ」と微笑んだ。
 
そうしているうちに、シェフと給仕係の挨拶を受け、コース料理の説明を受け、しずしずと前菜が運ばれてくる。レストランだから食事なのは当然だろうが、ヴァッカリオはずいぶんと奮発してフルコースランチをアポロニオのためだけに用意してくれたらしい。
 
「うむ、美味だな」
「良かった、実際に食べたことはないからさ、口コミとか頼りにしてて」
「素晴らしいセンスだぞヴァッカリオ。実に美味しい、ここまで美味しい料理はなかなか味わえん」
「ははは、その褒めの言葉は後でシェフに言ってあげなよ」
 
出される料理の数々はどれも一級品と言って差し支えなく、アポロニオもヴァッカリオも存分に舌鼓を打った。美味な料理に、平和なオリュンポリスの青空と街並みを眺めながら。何より、最愛の人と穏やかに会話をして。こんなに幸せでよいのだろかと、アポロニオは思ったし、ヴァッカリオですらそう思った。
 
「……本当に、お前が生きていてくれて……良かったよ」
 
メインディッシュの肉を食べ終わった後に、アポロニオがぽつりと言った。あの事件直後の流し続ける涙とも、うるさいぐらいにヴァッカリオに構おうとする態度とも違って、半ば放心したような状態で、アポロニオはそう言った。
 
「おいらも生きてて良かった、って思ってるよ」
「そうか……そうだな……」
 
アポロニオは幸せを噛み締めるかのように、目を伏せて心を落ち着けているようだった。ヴァッカリオは黙ってその様子を見つめている。
 
……たまに。アポロニオがこうして平和を謳歌している最中に、不安そうに瞳を揺らすことがあるのにヴァッカリオは気づいていた。何が原因だろうと考えるまでもなく、10年前のあの時のことだろう。それまで平和だった世界が、突然壊れ、親友も家族も失ってしまったアポロニオ。それだけではない、アポロニオはヴァッカリオが物心つく前にも、両親を亡くして幸せな暮らしが崩壊するという恐怖を知っている。
 
ヴァッカリオより1回分多く、その恐怖を味わっているアポロニオになんと声を掛けたらいいか、ヴァッカリオはまだよくわからない。ここにいるよ、とも、もう元気だから大丈夫だよ、とも、違う気がする。だって、ヴァッカリオはヒーローで、アポロニオはヒーローだ。戦う人間である限り、いつ、どこで、何があるか――命を落とすか、誰にもわからないのだ。
 
だから。
 
「お兄ちゃん」
 
名前を呼んで、アポロニオの意識を自分へ向けさせる。過去の恐怖を覗き込んでいるより、アポロニオが称えて止まないハンサムな顔を見ていたほうが絶対、建設的だ。
 
アポロニオの揺れる瞳は、すぐにヴァッカリオに焦点を合わせて、何か安堵したかのように全身から力が抜ける。……よかった、アポロニオが戻ってきた。ヴァッカリオも同じように、ほっと安堵の息をついた。
 
「なんだ、ヴァッカリオ」
 
名前を呼ばれたことに対して、何もなかったかのようにアポロニオが首を傾げる。アポロニオにとっては、無意識の行動なのだろう、ああやって時に幸せすぎる現実から怖がって逃避してしまうのは。そんなアポロニオにもいい加減幸せ慣れしてもらわないと困る。これからは、この平穏で幸せで温かい時間が平常運転になるのだから。
 
ヴァッカリオは内心で苦笑するだけに留めておいて、口を開いた。
 
「次はデザートなんだけどね。驚くと思うよ」
 
不思議そうな顔をするアポロニオを置いて、給仕を呼び、デザートを頼む。少々お待ちくださいと言って立ち去った給仕は――なんと、二人の仲間を連れて銀色のワゴンを三台もごろごろと押してきた。しかもそのワゴンは二段づくりで、そこにはスイーツが所狭しと並べてあり、つまり。
 
「ここにした理由さ、スイーツバイキングができるからなんだよね~」
 
アポロニオが大の甘党もとい子供舌であることはヴァッカリオが身をもって知っている。休みの日にホールケーキを作ったり、アイスを作ったり。そんなアポロニオに、『これからもよろしくお願いします』の贈り物をするなら……スイーツがいいに決まっている、とヴァッカリオは確信していた。しかもバレンタインなのだから。
 
「お、おぉ……」
「バレンタイン限定のスイーツもあるらしいよ。好きなだけ食べて?」
「い、いいのだろうか……こんな……!」
「足りなければ言って頂ければ、追加をご用意いたします」
 
にこやかに言われて、アポロニオは逆に困ったようにヴァッカリオを見た。質素倹約、清貧にすぎる生活を送っている807連勤男のアポロニオは、こうやって目の前にずいっと大量の好物を、幸せを差し出されるとどうしたらよいかわからなくなってしまうのだ。
 
「はいはいお兄ちゃん幸せ慣れしましょうね~っと。これとかお兄ちゃん好きそう」
 
ヴァッカリオは手をのばして、適当にチョコレートの何かをとる。何だったか名前は忘れたが、前にアポロニオがテレビでこのケーキを見てうっとりとした顔をしていたことを、ヴァッカリオはしっかり覚えていたのだ。
 
「お兄ちゃん、飲み物は?」
「……この、ショコラ・ラテで」
「じゃ、こっちはブラックコーヒーで」
 
甘いスイーツに甘い飲み物かあ、と少しだけ呆れつつも、興奮を隠しきれずに目を輝かせてケーキを口に運ぶアポロニオは本当に愛らしい。
 
昔、アポロニオが作ってくれた卵焼きを食べていた時に、アポロニオがなぜあんなに穏やかな顔で自分のことを見ていたか、今ならわかる。好きな人が好きなものを美味しそうに食べている光景というのは、何物にも得難い幸福なのだ。
 
 
 
いやあ食べたねえ、とアポロニオの食べっぷりに若干の胸やけを覚えつつ、ヴァッカリオは運転席に乗り込んだ。そもそもエネルギー消費量が非常に高いアポロニオは見た目の割に大食いで、本当にレストランのスイーツをすべて食べ尽くしてしまうのではないかというほどの勢いでスイーツを次から次へと口に運んでいた。途中、思わず給仕に大丈夫ですか、と尋ねてしまったヴァッカリオがいたのも仕方あるまい。答えはもちろん、「問題ありません。我々もプロですから」と頼もしいお言葉。
 
そうして、アポロニオが満足するまでスイーツバイキングを楽しみ(ヴァッカリオはひたすらブラックコーヒーを飲み続け、たまにアポロニオに勧められて少しばかり口にするだけだった)、二人は駐車場に戻ってきたのだった。
 
「本当に美味しいお菓子ばかりで……素晴らしい時間だったな!」
「ウン、ソウダネ……まあお兄ちゃんが喜んでくれたならそれでいいよね」
 
興奮冷めやらぬアポロニオの語りにヴァッカリオはやや適当に相槌を打ちながら、駐車場から車を出した。あとはアポロニオの家に行くだけ。夜は……明日休みを二人とも取れたから、久々に大人の時間を楽しむのもいいかもしれない。
 
と、考えていたヴァッカリオはふと気が付いて声をあげた。そういえば、今日はバレンタインデーなわけで。
 
「お兄ちゃんからチョコ貰ってない……あ、家にあるとか?」
 
ヴァッカリオの言葉に、アポロニオの肩がびくりとはねた。それまで饒舌にスイーツのすばらしさを語っていたのに、今ではすっかり押し黙っている。まさかアポロニオが最愛の弟へのチョコを用意してないということはあるまい、とヴァッカリオは再度アポロニオにチョコを催促してみた。……こういうところに、ヴァッカリオの傲慢さが表れているのだが、それに気づく人間はここにはいない。
 
「……チョコは用意してある、が……」
「え、なに、なんかあったの?」
「その、お前が用意してくれたプレゼントに比べたら、ずいぶんと安物を用意してしまって」
 
アポロニオは気まずそうにそう言った。言葉は尻すぼみになっていき、いつもの勢い良くヴァッカリオに嚙みつくのではないかというぐらいのパワーで喋り倒す姿とはかけ離れている。
 
「安物って……お兄ちゃんの手作り?」
「ああ、そうだ。プロに比べたら大したことのないものだ」
「いやいや、プロがとかそういう話じゃなくてね? お兄ちゃんがおいらのために手作りしてくれたっていうなら、それでいいんだよ」
「しかし……」
「なんでさ、いつもお兄ちゃんおいらにお弁当食べさせてくれるのに、チョコはくれないわけ?」
 
露骨に唇を尖らせて拗ねたような態度をヴァッカリオとれば、アポロニオは大いに慌てて違う、と繰り返した。
 
「……いいのか、本当にこれで。今から、私もお前のためにどこかディナーでも予約しようかと……」
「おいらにとっては、世界で一番お兄ちゃんの料理が最高のディナーなんだよ?」
 
甘すぎるのはもう少し改善してもらえると嬉しいけどね、とヴァッカリオは心の中で呟いておいた。最高のディナーだとしても甘いものは甘い。アポロニオの料理を食べていると、酒を飲む気がなくなっていくからヴァッカリオは最近、大いに健康生活を送っている。もっと塩辛くて、酒に合う料理を出してほしい。アポロニオの料理は甘すぎるという点を除けば、普通においしいのだ。そこにアポロニオの愛情がたっぷり詰まっているのだから、世界で一番美味しいに決まっている。
 
「お兄ちゃんのチョコが欲しい。お兄ちゃんが、おいらのためだけに作った、おいらへの愛をたっくさんこめた、お兄ちゃんの手作りチョコが欲しい!」
 
駄々をこねるように言ってやれば、アポロニオはやっぱり慌てたように、わかった、と言った。ちら、と助手席のアポロニオを見ると……頬を赤く染めて、恥ずかしそうに眼を伏せている。
 
「不出来なものだが、もともと、お前のために作ったものだ。お前が欲しいというなら……貰ってくれると嬉しい」
「やったあ! ……来年は、おいらもチョコ作ってみようかな」
「お前が? 珍しい!」
「だって、既製品のプレゼントはもうやったし、スイーツバイキングのプレゼントもやったでしょ。もうプレゼントのレパートリーがないよ」
 
ヴァッカリオはそうやって快活に笑う。来年、という言葉がするりと出せるようになったのも、最近のことだ。1年前には、明日をも知れぬ運命に嘆いてばかりだったというのに。
 
「手作りならいろいろ、種類あるだろうし」
「ふふふ、懐かしいな。昔、お前がホワイトデーにお返し用のクッキーを作ると息巻いていたことを思い出すよ」
「ちぇ、またそうやって子供扱いして……」
「ハッハッハ、そう拗ねるな。子供扱いしているのではない、ただ懐かしがっただけだ。……だが、お前が料理できるかは正直不安しかないのだが」
 
そう言われてヴァッカリオは押し黙った。それこそ、料理経験なんてアポロニオが言っていたホワイトデーのお返しクッキーをアポロニオと一緒に作ったことぐらいしかない。生活無能者の烙印は伊達ではないのだ。
 
「だから、ヴァッカリオ、来年は一緒にチョコを作らないか」
「! いいね、それ」
 
来年も、一緒に。その短い言葉だけで、二人は何があっても前を向いていける。
 
二人のバレンタインデーは、これから何回も、何十回も訪れるだろう。ヴァッカリオはバレンタインのレパートリーを増やし続けなければいけないし、アポロニオもずっとそれに付き合って一緒にチョコ作りをしていかなければ。
 
そう同時に思い至ったふたりは、偶然にも同じタイミングで噴き出す。そのうち、笑い声は小さなものから大きなものへと変わり。
 
「毎年手作りチョコじゃ逆に飽きるかもしれないから、たまには違うのも挟もうよ」
「そうだな……休みが取れれば、旅行というのも良いのではないか?」
「いいねー。それか、いろんなチョコ買い集めて家でオリジナルバイキングするとか」
「それも面白そうだな!」
 
ふとアポロニオは自分の身を包むスーツに目を落とす。せっかくだから、これも活用していきたい。ヴァッカリオがわざわざ貯金をしてまで買ってくれたもので、今日一日の思い出がたっぷりと詰まっているのだから。
 
「どこか、このスーツを着ていけるレストランを探すのもいいな」
「そうだね~。お揃いだしね! ……はは、ほんとやることが多いな」
 
ほとんど独り言のようなヴァッカリオの小さな声をアポロニオが聞き落すわけもなく。
 
「そうだぞヴァッカリオ。私たちには、やることがこれからたくさん、たくさんあるのだからな」
 
そう強く、ヴァッカリオを慈しむように、断言する。するり、と耳に入ってきたアポロニオの言葉に、ヴァッカリオは本当に聞こえないほどの声で「お兄ちゃんほんとそういうとこ……」と震えを必死に隠して、宙に吐き出していった。
 
そのたくさんのやりたいことが全部できるといい、いや、できるようにこれからも「元気に」生きていくぞ、とヴァッカリオは静かに決意する。助手席のアポロニオは、ヴァッカリオの瞳が少しばかり潤んでいる事には気づかないフリをして、ホワイトデーのクッキーはどういうものにしようかな、と穏やかに言った。
 
日々の幸せをひとつひとつ手に入れていく二人は、これから両手いっぱいにその幸せを抱えていくことになるだろう。
 
 
抱えきれないぐらいの幸せがヴァカアポに降り注ぎますように。
 

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